明日は福島のJヴィレッジに同僚議員と行くことにしました。
川内博史さんたちとも合流予定です。
群馬からは3時間ほど、秘書の運転で休み休み向かいます。
被災地やその近辺に怪我のため、行かれなかったのが震災ボランティア室でも心苦しかったので視察にはなんとか無理しても行こうと思います。また、数カ月は東京から動けなくなると思いますので・・・・、最後の機会です。
被災地から帰ってきたA君から昨日は岩手南部大船渡の状況を聞きました。依然、変わらぬ何もなくなってしまった広大な土地。想像するだけで胸が苦しくなります。
私が大阪赴任をしたのは阪神・淡路大震災が起きた年の7月でした。私がいた3年のあいだに無残に折れた高速道路は開通し、驚くほどのスピードで復興は進んで行きました。
関西の、日本の底力を見た思いでした。しかし、今回は津波被害も加わり、本当に被災者は家族や知り合い、会社や従業員を失い本当に『何もない』というところからの復興です。
原発の問題は原因はもちろん天災です。しかし、その後の起きたことは人災であるのは否定できません。企業の隠ぺい体質、役所の当事者意識のなさ、縦割りの弊害、原子力安全委員会の危機管理能力のなさ、そしてそれらからあがってきた情報を信じてしまい、発表してしまった政府。ただ、これはどんな党が政権にあったにせよ、防げなかったことでしょう。ましてや長いあいだ原子力発電所を安全だと言い続け、しかし安全対策は怠たり、推進し続けた前の政権には特に。
多くの方にツイッターのフォロー頂き、有難うございます。
大部分の方が一部の悪意のあるマスコミ報道を信じず、福祉への政治への熱意を理解してくれ、活動を応援してくれていることに感謝をします。本当に多くの友人ができました。長電話につきあってくれるEちゃん、愚痴を聞いてくれるSさん・・・。
私をいまだに苦しめるあの事件。通常だったら単なる委員会につきものの、乱闘さわぎの一場面です。
つい最近まで委員会で私をあの位置に移動させ、事故のあと車椅子に半ば強引に乗せ、当日A議員がやった(実際は直接被害は初鹿議員で被害は玉つき)と話され、結果的に騒ぎを大きくしてしまった先輩議員を少しだけ恨んでいました。(本人はその後見ていなかったから自分には関係ないと私には釈明→これには当日居合わせていた秘書一同愕然でしたが(笑い))A議員とは、深い縁がありお父さまと祖父が懇意で祖父がだいぶ選挙の応援を含め支援していたこともあり、先方もあまり後味はよくないのではと周囲が言っていました。
しかし、この大災害を前にそんなことも小さいこと。その先輩議員も今、被災県選出の議員として大変な苦労をしています。
私もその先輩を応援し、できるかぎりの支援をしたいと思っています。もうまもなく、民主党政権になって折り返し点、すべてをリセットし、復興を進めていかなければ。
どうしても震災が理解できない弟が秋田の祖母に会いに行きたいというのをやめさせるのに3日かかりました。自閉症は計画の変更に順応できないのです。母は、もうグロッキー。
何十枚も紙で筆談を繰り返し、やっと納得させたそう。
高崎に帰ってきたら、郵便受けには同じ内容の弟からのハガキが何枚も何枚も入っていました。忙しさを理由に母にすべてを任せてしている自分を反省しました。身近な人を大事にしなければ、福祉を語る資格はありません。戻ったらゆっくり話を聞いてあげよう。